「読書感想文の書き方教室(保護者編)
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読書感想文の書き方教室〜保護者編〜の管理人が本を出しました。 『読書感想文からオトナの世界が見える』 、2009年夏、雷鳥社より発売になりました。 |
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■反省文の書き方教室
■夏目漱石―『明暗』
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「読書感想文の書き方教室(保護者編)
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コラム
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本なんてどう読もうとかまわない。
偉人の伝記を読んで、「なんてすばらしい人だ! 感動した!」でも良い。「こんな立派な人間がいるはずはない! きっと子ども向けに編集しているはずだ! 真実が知りたい! 他の文献も読んでみよう!」と思うのもよしである。
ところが読書感想文はそうはいかない。
ガッコのセンセイは「子どもはこうあるべき(いや、こうあってほしい)」との思いがある。
そんな純粋まっすぐな人種なのだ。どう読もうがどう感じようが自由なのが読書なのに、型にはまった読書道が求めてくるのだ。
コラム
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スポーツ少年少女を材材にした小中学生向けの物語を教えてください。 |
オイラは雑誌記事を書くとき、その媒体に合わせて書き方や内容を変更する。雑誌には想定読者がいるので、初心者向けの雑誌では専門用語を控えたり、中上級向けだと、「これは分かっているはずだから」と説明を省いたりする。同じテーマを扱うにしても、読者層に合わせて書くべき内容は違ってくる。読者さんを満足させるのがライターと編集の仕事である。
読書感想文の場合、読者はセンセイだ。センセイを喜ばすのが読書感想文の目的となる。コンクールに出すのならば、学校の代表になるためにるためにセンセイを喜ばす。本戦で成績を収めるためにコンクールの審査員を喜ばす。子どもの書く読書感想文とはいえ、対象となる読者は立派に存在するのである。
ものを書くのは読み手がいるから書くのだ。読み手を満足させるのが書き手の腕の見せ所だ。読書感想文も読み手のセンセイを満足させいかに喜ばせるか、プロの児童・生徒としての腕の奮いどころなのだ。
コラム
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文章は読んだ本の影響をモロに受ける。オイラの場合、中谷章宏に凝ってるときは文体は丁寧になる。小林よしのりに凝っているときはゴーマンな文章になる。資料用に学者センセイの本を読んだあとに原稿を書くと、文章がくどくなる。松井英樹の本を読むと、まったりとした文章になる。
子どもたちがふだん触れているのは大人が子ども向けに書いた文章である。子どもが理解できることが前提条件になるので、著者も大変な苦労をする。しかも、子ども向けに書く文章はいろいろと制約がある。いわゆる人工的な文章なのだ。
子どもにとって良い文章とは、自分と同じ学年の子どもが書いた上手な文章だ。子どもたちが文章を書くのには制約はない。漢字も語彙も知っている範囲で文章を書く。漢字の制限や言葉の制限はない。大人たちがあれこれ考えて作り上げた文章ではなく、自然な文章なのだ。これ以上のお手本はない。これらの文章は、「読書感想文+コンクール(or コンテスト)」「作文+コンクール(or コンテスト)」で検索をかければ簡単に入手できる。これをワープロソフトで縦書きに直したものを子どもに何度も読むようにと言いつける。
これらの読書感想文や作文を暗記するくらい読み込ませると、子どもは自然と言葉の使い方や文体が似てくるようになる。
コラム
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読書感想文にも書きやすい本と書きづらい本がある。書きやすいのは自分の子どもと主人公がリンクするものだ。書きづらいものは、主人公とリンクしないものである。
ジャンル的に書きづらいのは「冒険もの」や「不幸もの」だ。
「冒険もの」は読むのはおもしろいが、感想文を書くとなると、自分とリンクをさせづらい。「すごかった」「かっこよかった」と、あらすじをなぞるだけのもので終わってしまう。「冒険もの」を読んだときのハラハラ感やドキドキ感をうまく表現できるような子どもは、100メートルを早く走れる子と同じで、生まれついての素質を持っている。「冒険もの」で生き生きとした感想文を書くのならば、無人島での生活体験や、ゴムボートに乗った急流下りなどの体験が必要になる。至れり尽くせりのキャンプ場での体験は全然役に立たない。
「不幸もの」も「○○の場面がかわいそうだった」と、あらすじをなぞって、そのあとにとってつけたような曖昧な感想に終始し、子どもに求められる躍動感のある読書感想文とは正反対になってしまう。不幸ものできらりと光る読書感想文を書くには、かなりの不幸体験が必要になる。
自分の体験とリンクさせやすい主人公が登場するものが読書感想文としては書きやすい。名作と読書感想文を書きやすい本は全然違うと言うことを理解しなければならない。
コラム
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センセイは実に単純な人種である。純粋とも言えるし純朴とも、素朴とも言える。
そんな彼らが好きなのは「感動する子ども」である。彼らの頭の中には「感動する子ども=感受性の豊かな子」の公式がある。逆に、「感動しない子=何を考えているか分からない子」となってしまう。突発的に大事件を引き起こすのは「何を考えているのか分からない子」と、少年犯罪が起こるたびに評論家がしたり顔で吹きまくるので、なおさらである。
今の世の中感動することが難しい。ものも情報もあふれ、本物に触れる前にすでに疑似体験をしてしまっているのだ。プラズマハイビジョンにはカラーテレビが家に来た昭和40年代のような感動はない。親に見つからないように「11PM」を見るドキドキ感は今の子どもたちにはない。インターネットにはエログロ画像があふれている。大人だってそうだ。昔のお父さんは「いつかはクラウン」と仕事に励んだものだが、オイラのようなバブル世代は「いきなりクラウン」だ。
「いきなりベンツ」というしゃれにならない者も珍しくはない。昔のお父さんがクラウンに乗った感動なんてありゃしない。しかし、子どもたちは読書感想文の中では感動しなければならないのだ。胡散臭いと思っても、現実にはあり得ないことだと分かっていても、感動の言葉を書かねばならないのだ。感動という演出をするのも読書感想文には欠かせないのだ。
コラム
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課題図書が決まっていない場合、本を選んだ理由を書くと原稿用紙が何行分か稼ぐことができる。
とはいっても、児童・生徒が明確な目的があって本を選ぶとは考えにくい。オイラも資料用に読む本を除くと、表紙が何となく良かったとか、帯の文句に力が入っているとか、じゃまにならない大きさの文庫版や新書版であったとか、そんなもので、明確な理由などない。資料用に使うのならばともかく、本を選んだ理由を書こうとすること自体大間違いなのだ。
ましてや読書感想文用の本など読みたくて購入するものではない。仕方なしに購入したものだ。その仕方なしに購入したものに対して「何で選んだのか?」ともっともらしい理屈をつけること自体ムリなのだ。ましてや、課題図書が指定されてある場合、選ぶ理由も何もないのである。強制的なのだ。
本を選んだ理由を書いてマスを埋めたいのならば、自分の体験とリンクさせるしかない。転校したとか病気をしたとか、ボランティア活動をしたとか、自然に触れたとか、いじめにあったとか、いろいろな経験をしているはずである。しかし、児童・生徒の体験とリンクするようなことがないならば、あえて本を読んだ理由など書く必要はない。
センセイは反省する子どもが大好きだ。
読書感想文でも自分と主人公の行動を照らし合わす。「僕は○○できなかった」と、具体的な体験を書く。そして、「この本を読んで○○はしないように(するように)したい」とまとめる。センセイの好感度はアップする。
オイラは小中学生の読書なんて、本を読むトレーニングと思っているが、センセイは一冊の本から何かを学んでほしいと願っている。その願いを叶えてあげるのがプロの児童・生徒だ。「この本を読んで○○について反省しました。人間的に一回り成長しました」的なことを書くのもテクニックの一つである。
コラム
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小学校のセンセイで40人分、中学のセンセイだと120分〜160人分の読書感想文を読まなければならない。大学のレポートは適当に読んでも済まされる。しかし、中学や小学校だと保護者がうるさいから、きちんと読まなければならない。センセイも大変なのだ。
読書感想文は書く方もつらいが読む方だってつらい。楽しい夏休みを憂鬱なものに変えてしまう読書感想文には、生徒の怨念がこめられている。仕事だから読むが、好きこのんでこんな怨念のこもったものを読みたいと思う奇特な人間はいない。お互いを不幸にし、なおかつ読書嫌いを増産する読書感想文など廃止してしまえばいいが、前例を変えることは難しい。読書感想文廃止なんて言うと、職員室でごたごたが起こるだろうし、そのごたごたに比べれば、読書感想文を読む方がましなのかもしれない。
こんなセンセイ方のご苦労を考えると、生徒側は読みやすい文章(楽に読める文章)を書かねばならない。読みやすい文章とは、一文一文が短く、随所に体言止めを使ったリズム感のある文章だ。作文の指導で「文章は短く」と言われたのを覚えていると思うが、これは短い文章が良いのではなく、文構造が単純になるので読むのが楽になるからなのだ。
同じ内容ならば、読みやすい方が評価は高くなるのは当然だ。読み手の負担を考えて書くのが良い読書感想文というものだ。
読書感想文がおもしろいかどうかは文頭で決まる。
文頭がおもしろくないと読んでもらえない。映画もそうで、冒頭でバトルシーンやパニックシーンが盛り込まれる。徐々に盛り上げていくのではなく、最初からドカーンとやる。実際のところ、読者のハートをつかむ冒頭の文章はテクニックが要る。名だたる大先生も悩みに悩む。児童・生徒に文頭で心をつかめと言ってもできるはずはない。
しかし、読書感想文用の冒頭テクニックはある。単文を接続詞なしで矢継ぎ早に文頭に盛り込んでセンセイを「おや?」と思わせる手口だ。読書感想文の出だしは「○○を読んで感じたのは」「○○を読んだ理由は」が定番だ。こんな冒頭分に出会うと「今年もまたか!」となる。そこに単文をポンポンとつなげた文章で、具体的な名詞が盛り込まれ、擬音を使った文章を読めば、「他のと違うぞ!」と期待感がわいてくる。文頭にいきなり会話をもってくるのも躍動感が生まれる。
作文指導で短い文章をと指導しているはずだから、「コイツはオレの言いつけを守っている」となる。自分の言うことを聞く人間はかわいい。「そうです、左様、ごもっとも」と言っていれば、サラリーマンが失敗しないのと同じ原理だ。それが証拠に読書感想文コンクール入選作品を読んでも、冒頭は単文の連続でたたみ込むように書いているものが多い。
ガッコのセンセイはつらいことにもめげず、がんばる児童・生徒が大好きだ。
「○○の主張」なんてのを見ていると、貧乏・不幸自慢だ。読書感想文も自分の不幸体験とリンクさせることでセンセイの好感度はアップする。その不幸を克服したことを書くと好感度はマックスになる。
子どもがそれほど不幸でなかったら、周りにいる不幸な人を見つけてきて、それとリンクさせて書く。たとえば、『ひめゆりの塔』のような戦争物を選択した場合、「可哀想だと思った」と書くのは誰もが思いつく。誰もが思いついたものを書いたところで評価は得られない。そこで、おじいさんおばあさんの戦争体験と本の内容をリンクさせる。「おばあさんがこうは話した」「おじいさんはこんなつらい目にあった」と。
おじいさんもおばあさんもつらい戦争体験をしていないのならば、別の本に書いてあったことをおじいさんおばあさんが語ったことにしてしまえばいい。別の本に書いてあったと書くよりも、おじいさんおばあさんの口から聞いたことにした方が臨場感がある。読書感想文は評論とは違う。出所の確かさよりも、人が実際に体験したことが重んじられる。
また、夏休みは終戦のシーズンなので、新聞やテレビでも戦争を振り返る。その記事や番組を、おじいさんおばあさんが話したことにしても良い。ただ、学校のセンセイは朝日新聞が好きだし、毎日新聞主催のコンクールに毎日新聞に掲載された記事をおじいさんおばあさんが語ったことにすると、記事をパクったのがばれてしまう。おすすめなのは他府県のローカル新聞だ。インターネットで検索すれば見つかる。他に、BS放送の番組も視聴率は高くないので、パクリと見破られる危険性は減る。
おじいさんおばあさんが戦後生まれでもかまわない。無理矢理タイムスリップさせて、戦前の生まれにしてしまえばいい。プライバシーの存在しない田舎ならば「あの人、戦後の生まれだよ」となるかもしれないが、新興住宅地やニュータウンならば、おじいさんおばあさんがいつ生まれたかなんて誰も知らない。脚色・演出はノープロブレムなのだ。
コラム
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不幸なんてそうそうあるものではない。不幸がないのならば、子どもの体験にリンクさせれば良い。
たとえば、『大自然もの』を選択した場合、「自然はすばらしい」とか「自然は大切にしなければならない」と書くのは芸がない。ボランティアでゴミ拾いをしたときやボーイスカウトの清掃奉仕活動などの実体験リンクさせる。言葉にも重みがましてくる。「自然を守らなければ」と口で言うよりも、空き缶を一つ拾う姿にガッコのセンセイはメロメロになる。
『ウミガメ』の本を読んだら、浜辺の清掃に参加したことと、そのとき何を考えて清掃をしたか、浜辺が汚いとウミガメの繁殖にどのような問題があるか具体的に書く。センセイの方も読んでいておもしろい。おもしろければ評価が上がる。
センセイ方が喜ぶのか、学校の行事として行う活動にリンクさせることだ。ボランティア活動を通じて人間性の云々と悦な状態にいるのを、「清掃のボランティア活動を通じて○○を学びました」「○○の大切さが分かりました」なんてまとめを本とリンクさせて書く。センセイはますますご満悦になること請け合いだ。
コラム
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小中学生向け職業について考える本を教えてください。 | 小中学生向け職業について考える本を教えてください。 | 小中学生向け職業について考える本を教えてください。 |
オイラが子どものころ、読書感想文が下手で親に怒られたものだが、「あんたの子どもがすばらしい読書感想文なんて書けるはずないじゃないか!」と心では思っていても、口に出すことはできなかった。子どもがそんなことを口にしようものなら、たちまち経済封鎖だ。
児童・生徒諸君が読書感想文が嫌いなのは、本とリンクした実体験がないからだ。それで、「おもしろかったです」「良かったです」「かわいそうだったです」となってしまう。読書感想文なんて机の上で書くものではない。身体を動かして、それと結びつけるからおもしろい。だから、読書感想文につながる体験を夏休みや休日を使って行い、それに結びつけて書くという必勝パターンを提示してあげる。それが親の責任というものだ。
家族で海外旅行に行くのも良いが、バカンスと結びつけたところでおもしろい感想文なんて書けやしない。それよりも、ゴミ拾いをさせたり、穴を掘ってうんこをするようなキャンプに参加させれば、自然派読書感想文のスペシャリストになれる。老人ホームのボランティアに参加させて、お年寄りから戦争の話を聞ければ、反戦読書感想文のスペシャリストになれる。
人間なんて、そうそう得意分野をもてるわけではない。環境・福祉・反戦・ボランティアと、ガッコのセンセイの好きそうなテーマに直に触れさせることで、読書感想文嫌いな子どもたちもその道の読書感想文のスペシャリストになれる。
コラム
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自分の体験にリンクできないのならば、架空の人物に語らせてしまうのも一つの手だ。
たとえば、ボランティアものを題材に取り上げたとしよう。ボランティア活動に参加経験がなければ、自分の体験としてリンクさせることはできない。しかし、架空の人物を作り上げて、彼や彼女が「ボランティア体験の話をしてくれた」とどこかで聞きかじったことをリンクさせてしまい、それがきっかけでボランティアに興味を持ってこの本を選んだ的な流れにしてしまってもOKである。
大自然ものなら、ボーイスカウトやガールスカウトに参加しているお友達を作り上げて、彼、彼女からこういう話を聞いたと、こちらも小耳に挟んだようなことを元に、経験を創作する。「彼らの話を聞いて、この本を選んだ」とか、「もっと知りたくなってこの本を選んだ」とかの流れにしてしまうのもOKである。
この架空の友達だが、以前いとこの家に遊びに行ったときに知り合った子で、今も文通をしているお友達とでもすれば良い。海系の自然ものを書くのならば、海水浴に行ったときに泊まった民宿の家の子とでもすればよい。だが、出会い系サイトで知り合ったとか、インターネットの掲示板で知り合ったではまずい。今、出会い系はイメージ的には風俗化している。学校のセンセイに警戒されてしまう。
携帯・パソコンを使うか便箋・封筒を使うかだけの違いなのだが、メールと手紙では学校のセンセイの受ける印象は180度変わってしまう。便箋と封筒を使う文通にほのぼのとしたものをセンセイたちは感じたいのだ。
コラム
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読書感想文を書くのがうざったいのは、本とにらめっこしながら書くからである。にらめっこして書くから、あらすじのあとに「おもしろかったです」「悲しかったです」と、あいまいな感想をつけただけのものになり、全然躍動感がなくなってしまう。
それならばいっそのこと、本からまるっきり離れて、本のテーマと関連する体験事項を作文としてそのまま書いてしまうのも一つの手段である。読書感想文は書評ではない。感想文なのだ。別に本の内容ではなくても、「自分の体験を思い出した」「この夏、こんな体験をした」、そして「主人公の○○と同じ思いを共有した」と具体的に書けばで良い。読書感想文とは考えないで、本のテーマにリンクした作文と考えればずいぶんと書くのも気が楽になるのだ。
このときに役立つのが低学年の児童向けに編集された書籍や、漫画だ。何も分厚く、活字のぎっしり詰まった本を読む必要はない。大まかな内容がわかれば、自分の体験とどうリンクさせればいいのかがわかる。
コラム
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今でも書かせているか知らないが、オイラが子どものとき「父の作文」とか「母の作文」「家族の作文」なんてものを書かされた。これには親も神経をとがらせ、必ずチェックが入った。これらの作文は自分で書いたものを提出したことは一度もないと記憶している。今もって何の目的があってこんな作文を書かされたのか理解できないし、知っている方がいれば教えてほしいのだが、身近な人間のプライバシーは興味津々なのは確かだ。
読書感想文にしろ作文にしろ、センセイが読むのは自分の生徒たち。読書感想文コンクールで見ず知らずの子どもの作文を読む高名な作家センセイ、新聞社のお偉いさんたちとは立場が違う。読書感想文に実体験を入れるのが良いのは、学校以外の子どもたちのプライバシーがセンセイの覗き見趣味を満たすからだ。指導上のためというのもあるのだろうが、学校の外で児童・生徒が何をやっているのかが書いてあれば、センセイも人の子、興味はそそられるというものだ。
興味をそそられると言うことは、評価が上がることへつながる。プライバシーの切り売りは芸能人だけのものではない。読書感想文だってプライバシーを切り売りすることで評価は上がるのだ。
コラム
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文章の書き方は「起承転結」だと教わる。新聞の4コマ漫画も「起承転結」だ。しかし、児童・生徒に「起承転結」の文章構成ができるはずがない。いっそのこと「起承転結」なんて構成を放棄してしまう方が気が楽だ。読書感想文は論文ではない。論理構造に拘る必要はない。「起承転結」なんて、書く前に構成ができあがっていないと書けない。子どもに書き始める前に構成を決めさせるなんて酷な話だ。「起承転結」なんてお気楽におっしゃっているご本人様だって、お書きになることがおできになるのかどうかビッグな疑問である。
子どもは発展途上だから、書いている途中でいろいろなアイデアが浮かぶこともあるし、今までの体験を思い出すこともある。読書感想文を一つ書く課程でも成長しているのだ。最初にこれ、次にこれ、最後はこうまとめると型にはめてしまったら伸びるものも伸びなくなってしまう。
コラム
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課題図書が決まっている場合は仕方がないが、決められていない場合、『走れメロス』や『坊ちゃん』のような古典的な名作は避けた方が無難だ。新卒のセンセイならばともかく、20年30年も国語のセンセイをやっているベテランになると、これらの名作な何度も読書感想文でお目にかかっていて新鮮みがない。興味を持って読んでもらいづらい。
それに古典的な名作はストーリーや表現は簡単でも実に深い意味がこめられている。深い意味があるから人は飽きずに読み続ける。大学の偉いセンセイたちもライフワークとして研究する。表現の簡単さ、ストーリーの単純さとは別次元の深い意味がある。これを児童・生徒が理解するのは不可能だ。子どもに簡単に理解されてしまっては国文学のセンセイの立場がなくなってしまう。
また、海外の文学作品は読書感想文が書きづらい。海外の名作は自分とリンクさせることが難しいものが多い。
たとえば、『ひめゆりの塔』はおじいさんおばあさんの体験談と結びつけるのは可能だが、『アンネの日記』となると、身近な人の体験とリンクさせるのも難しい。ナチスのユダヤ人政策の知識がないと理解しづらい。理解するためには他に何冊も本を読まねばならない。これを小中学生が理解するのは大変だ。中途半端に理解したつもりになると、大人になって偏った思想をもってしまう可能性を否定できない。感動はしても文章にしづらい作品はけっこうあるのだ。
コラム
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「感動を表現するための技術の習得のための読書感想文」と崇高な願い(てゆ〜かオイラ的には単なる大ボラにしか思えないのだが)を真剣に考えておられる方々がいらっしゃる。しかし、感動を表現する術は、読書を含めていろいろなことを経験していく上で身につく。読書感想文を年に何回か書かせただけで身につかない。
ちょうどこれを書いているときに、NHKで「大地の子」の再放送をやっていた。何度も見ているので筋は分かり切っているが泣ける! 感動する! だが、『大地の子』を原稿用紙3枚で感想文を書けと言われたらオイラにはムリだ。解説や書評もどきなら書けるだろうが、感動は原稿用紙3〜5枚などではとても書ききれるものではない。テーマが大きすぎる。
本のテーマが大きいと、子どもの経験に見合わない。テーマと子どもの体験のギャップができるので、感想文は抽象的な記述に終始する陳腐なものになってしまう。子どもの経験レベルに合う本をアドバイスしてあげるのも親のつとめなのだ。
オイラ的なアプローチで読書感想文についてあれこれ言うと、燃える教育者や良い人系文化人は眉間にしわを寄せるはずだ。
しかし、方法論から入って読書感想文を書いたとしても、重荷から解放されることで読書感想文トラウマは回避できる。また、読書感想文が上手に書けたとほめられれば、本を読むことも楽しくなるだろう。もっとおもしろい読書感想文を書いてみようとなるはずだ。ほめられてモノゴトが好きになった経験は誰にでもあるはずだ。
本を読むのは教養的な娯楽だ。文字を読むスキルを習得するまでは確かに苦労するかもしれない。しかし、熱血センセイ方は、文字を読むスキル習得の苦労に加えて、「本と向き合え」「人間的に成長しろ」と、精神的な負担をかけることに生き甲斐を感じている。こんなことをされて、読書大好きになったら変態だ。
結局は読書がおもしろいと感じるようになればいいのだ。
読書感想文の情報交換の掲示板をみていたら『羅生門』についての読書感想文をどう書けばいいか? と言った書き込みを見かけた。学年は書いていなかったが、多分高校生かなぁと思う。「お気の毒様」と言うほかない。
今、オイラが羅生門で読書感想文を書けと言われたら、どんな切り口で書くのだろうかと考えてみた。生きていくためならば盗み(悪)をチョイスするエゴイズム、そのエゴイズムを肯定する人間と言うものを良い子ちゃん大好きの学校のセンセイ向けに書くとしたら、「自分のエゴイズムを”自己批判”する」になるのだろうか? ってところだ。
それよりも、『羅生門』を課題図書に選んだセンセイがどんな読書感想文をお書きになられるか、ぜひとも拝読申し上げたいってゆ〜のが正直な気持ちだ。人間のエゴイズムが戦争や貧困を引き起こすとでもお書きになられるおつもりなのだろうか?
ご自分が芥川オタクなのはけっこうだが、それを生徒に押しつけるのはいかがなものかとオイラは思う。自分の趣味を押しつけるからオタクなのだが……。
オイラは子どもたちが本を読むのはトレーニングというのが持論だ。
自分の好きな本に巡り会えば、何度も繰り返して読むだろうし、感動もするだろう。しかし、それも読むための技術を習得したあとの話だ。本を読む持久力とスキルがなければ、読むのに疲れて感動なんて話にはならない。
漫画だろうとゲームの攻略本だろうと、文字を読む作業は同じだ。漫画は絵ばっかりと言うが、『名探偵コナン』なんて良くもこれだけ字を詰め込んだなと思うほどの編集技術には恐れ入る。古い漫画だが『金田一少年の事件簿』なんて、流し読みしていたら事件のポイントが分からなくなってしまう。オイラの愛読書『こち亀』なんて、漢字はたくさん出てく。しかも丁寧に読み仮名つきだから、『こち亀』でどれだけの言葉を覚えや漢字を覚えたか分からない。漫画でも文字を読むトレーニングにはなるのだ。
ゲームの攻略本なんて、どこがポイントなのかをしっかり把握する力がないと読むことはできない。どこに必要な情報が書いてあるかを見つけるには最適のトレーニングだ。漠然と読んでいるだけでは、裏技や攻略方法は見つけられないのだ。「子どもがゲームの攻略本しか読まない」と愚痴を言う前に、ご自身で攻略本を読んでみてから、読書のスキルが身につくかどうかを判断してほしい
スポーツと同じで本を読むのには基礎体力が必要だ。一冊を読み続ける持久力。おもしろくなくても読み切る根性。これを克服するのが、文字を読むトレーニングなのである。トレーニングなのだから、漫画でも攻略本でもかまわないのだ。
コラム
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オイラはタマネギがどうしても食べられない。長ネギの方はどうにか食べられるようになったが、タマネギだけはダメだ。他は好き嫌いはなく、セロリも大丈夫だし、パセリもOK。にんじんピーマンはノープロブレムだ。積極的にセロリやパセリを食べるわけではないが、食べられるということが大切なのだ。
読書もそうで、読書大好きにならなくてもかまわない。嫌いにさえならなければ、いつかは手にとって読むようになる(と思う>オレ)。
読書というとセンセイや保護者は古典的な名作やお偉いセンセイやなんとか協会推薦とかの本を読ませたがるが、そんなのは読みたくなる時期がいつか来る。そのときに読めばいいのだ。ムリして中学生に夏目漱石の『こころ』なんて読ませる必要はない。それなのにムリして読ませようとするから、読書嫌いになるし、その時がこなくなってしまうのだ。
オイラも、読書嫌いの少年だったので、子ども時代に読むべきとされた作品をほとんど読んでいない。『悲しき南回帰線』は意味も分からずに何度か読んだが、『ファーブル昆虫記』や『シートン動物記』、『赤毛のアン』や『小公女』なんて読んだ記憶がない。これではいけないと思って、『岩波少年文庫』『講談社青い鳥文庫』『ポプラ社文庫』なんてシリーズを読み始めていたりする。オイラにとっては、子ども向けとされている名作を読むときが今なのだ。
子ども向けと言われている名作を小学生のときに読むのが偉くて、大人になってから読むのは偉くないなんてことはない。子どもだから感動できて、大人には感動できないなんてこともない。本なんて読みたいときに読むのがベストなのだ。
子どもたちに読書のすばらしさを啓蒙したがる良い人系文化人は「感動できる本に出会おう!」とかお気楽なことを言って自己満足に浸っている。それを真に受けた純粋なお母さんは「本を読んで子どもに感動してほしい」と思ってしまう。
しかしだ! 感動できる本なんてそんなにありはしない。オイラも仕事柄本は読む方だと思うが、資料として部分的に使える本は何十冊に1冊はある。しかし、感動できる本なんて何百冊に1冊もあればいい方だ。感動できる本に出会えるなんて、懸賞に当たるようなものだ。1000円ちょっとの本で年がら年中感動できれば、人生これほど楽しいことはない。
おすすめの本なども学年別に紹介していたりするが、それは良い人系文化人が良いと思っただけってゆ〜か、「子どもたちにこういう本を読んで感動してもらいたい」という願望であったり、「子どもたちはこういう本を読んで感動すべきだ」って押しつけなのだ(と思えてならない>オレ)。
だいたい、いい年したおじさんおばさんの感覚が子どもたちに受け入れられるかってゆ〜と、そうは思わない。良い人系文化人が過ごした子ども時代と今では状況が全然違う。そもそも良い人系文化人のおじさんおばさんは、基本的には読書好きの良い子ちゃんな少年少女だった(だろうと推測する>オレ)。読書オタクに「感動を!」なんて言われてもな〜って思うのが正直なところだろう。
感動する本に巡り会うには、何百冊も読む必要がある。しかし、児童・生徒にそれほど読書漬けの日々を要求するのはムリな話だ。児童・生徒諸君がどのくらいのスピードで本を読むのかオイラには分からないが、1週間に1冊としておよそ1年で50冊。このあたりが限界ではないだろうか?
子どもってけっこう暇なようで忙しい。おケイコの教室もあれば、お勉強の塾もある。学校の勉強もしなければならない。友達と遊ぶのだって大切だ。テレビだって見なければならない。それを何十年も前の感覚で読書を子どもたちに要求するのは時代錯誤も甚だしいと感じてしまう。
読書の習慣がつけば、ちょっとした時間を見つけて本を読んだり、就寝前に布団の中で眠くなるまで読書するのも可能だ。しかし、それが現実問題できるかとゆ〜と、酷な気がしてならない。
感動する本を探すのは難しい。それならば、子どもが読んで感動した本をインターネットで募集すれば良い。良い人系文化人の思いこみやセンセイの「感動すべし」の視点で選んだ本ではなく、純粋に子どもたちが感動した本の情報を集めることができる。それに、子どもたちが読んで実際に感動した本ならば、読書感想文も書きやすい。読んでおもしろくも何ともない本の読書感想文を書くなんて、強制労働だ。
と言うわけで、オイラはこのページを使って「皆さんの子どもが読んで感動した本」を募集することにした。実際、情報が寄せられるまでには時間はかかると思うが、良い人系文化人のセンセイ方の選んだ本と、実際に子どもたちが選んだ本の間にどのくらいのギャップがあるのか、それともセンセイ方は的確に児童・生徒のニーズを満たす本を紹介しているのかどんな結果が出るのか楽しみなのだ。
あなたの子どもが読んで感動した本を教えてください |
「本は友達」って言われて頷くのは、どうすれば大人たちに受けるかを常に考えている風間クン的な子どもだ。出世はするが、決してトップには立てないタイプだ。
文字を読み始めて数年の子どもたちには、読書は思いのほか重労働だ。本を読む行為に疲れ果ててしまい、感動なんて味わえないのが現実だ。子どもにとっては読書はスキルの習得である。本は集中力を養うために闘う相手なのだ。それなのに「本は友達」なんて言われたら子どもはたまったものではない。
オイラが子ども時代の読書を思い出すと、本を読むと言うよりは、残りページのカウントをしていた。「まだこれだけしか読んでいない」「ようやく半分まで読んだ」「あと何ページで終わる」って具合にだ。残り20ページになると、頂上が見えてきた感じで、読書って感覚よりも、机の前に座って、校内マラソン大会をやっていたようだ。本を読むためのスキルと精神的持久力をつけるトレーニングで手一杯で、「本は友達」とは異次元のところでもがいていたって感じだ。
あれほど苦労させられたにもかかわらず、高校に入ると読書感想文なんて急に地位が低くなって、ど〜でも良い存在になってしまう。
高校生対象の読書感想文コンクールもあるが、部活動みたいなもので、参加したいヤツが参加すればいいというスタンスだ。参加するのは読書感想文マニアか読書オタクだ。付属でそのまま上がるとか、推薦で入ろうと計画しているのならまだしも、、高校生にもなって受験に関係ない科目にそうそうムキになる必要はない。
一般入試一本と覚悟を決めたのならば、読書感想文を提出しないという選択肢だってある。読書感想文に悩む時間に、英単語でも覚えた方が、より偏差値の高い大学に合格するだろう。それが有効な時間の活用法というものだ。先生に文句は言われるだろうが、そんなのは聞き流せばよい。
大学に入れば、レポートになり、下手に読書感想文的に書こうものなら「読書感想文じゃない! レポートだ!」なんて叱られたりもする。これほどまで苦しめられた読書感想文っていったいなんだと思う。
皆さんにとって読書感想文とは何だっただろうか? そして、読書感想文が社会生活を営む上で何かメリットをもたらしたのだろうか? お教え願いたい。
皆さんの読書感想文体験を教えてください |
名前 | おんだひさとし |
職業 | 予備校講師(英語)⇒⇒⇒出版社勤務の編集者⇒⇒⇒フリーのライター兼編集。ライターのお仕事ください。お待ちしてます。メールはこちらまで! 得意分野はIT関連とか、ネット恋愛関係とか、英語関連とか、アプリケーション解説関係とか、取材関係とか、あとは応相談。 |
執筆書籍 |
・『読書感想文から大人の世界が見える』(雷鳥社) ・『Access向上大作戦』(キルタイムコミュニケーション) ・『メールの常識非常識』(キルタイムコミュニケーション) ・『インターネット白書2002』(インプレス) P188〜189 |
主な執筆雑誌 |
・「放送文化」(NHK出版) ・「週刊ダイヤモンド」(ダイヤモンド社) ・「実業の日本」(実業之日本社) ・「週刊サッカーマガジン」(ベースボール・マガジン社) ・「朝日ビジネスPASO」(朝日新聞社) ・ASAHIパソコン別冊「skew!」(朝日新聞社) ・「ネット生活最重要テクニック」(宝島社) ・「古今東西の戦いから選んだ/世界の名軍事作戦ランキング」(宝島社) ・「ネットJ」(アスキー) ・「Win Do」(アスキー) ・「関西ウォーカー」(角川クロスメディア) ・「SPA!」(扶桑社) ・「作ろう魅せるホームページ」(インプレス) ・「ホームページデビュー2001」(インプレス) ・「あちゃら」(リクルート) ・「マッツ」(マガジンハウス) ・「日経netn@vi」(日経BP) ・「PCSTYLE21」(毎日コミュニケーションズ) ・「サイゾー」(電波新聞社) ・「JAPAN CLASS」(東邦出版) ・「アージュ」(チャックアンドカンパニー) ・「Di It!」(アルク) ・「IT・ベンダー資格試験ガイド」(IDG)など |
主な出演番組 |
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